2014年10月21日火曜日

ソーシャルアクションの方法  年越し派遣村に学ぶ(3)  協働する

年越し派遣村を成功させた重要な要素の3つ目ですが、多くの人が協働していたということがあると思います。

「年越し派遣村実行委員会」を組織し、協働していたのは、湯浅誠氏が事務局長を務めていた「NPO法人自立生活サポートセンター・もやい」、宇都宮健児氏をはじめとした法律家や、「全国コミュニティ・ユニオン連合会」といった労働組合の人達です。大きな仕事を協働して成功させるには、多少の主義主張の違いはあっても、それぞれの団体が感じている問題意識を重ね合わせて共通の目標を見出し、その目標に沿って協力していくことが求められます。派遣村は、その目標が主催者の間で常に共有されていたという印象を受けました。
日比谷公園3

派遣村の影響力の大きさに反応したのか、当時野党だった民主党の管直人氏、日本共産党の志位和夫氏、社会民主党の福島瑞穂氏、新党大地の鈴木宗男氏等の政治家が視察に駆けつけて応援スピーチをし、テレビでも中継されました。与党だった自由民主党からも政治家が視察に向かい、どの政党も貧困や派遣切りという社会問題の存在を認め、何らかの対策をとることを約束しました。政治家を派遣村に絡ませるということは、派遣村実行委員会が最初から計画していたことであったろうと推察されます。

 私は、ボランティアとして、避難所利用者のテントをたたむ手伝いをした後、日本全国から届いた炊き出し用の米や野菜を運搬するのを手伝いましたが、○○県共産党というラベルが貼ってある物資が多く、日本共産党が組織的に派遣村に協力してくれているということがよくわかりました。

当時の私は、派遣村の中に政治色が強く出過ぎていると思ったりもしましたが、今では、このくらい数多くの人と団体が協働し、政治家を動かすくらいでなければ、ソーシャルアクションとして大きな影響力を行使することはできないのではないかと思っています。

年越し派遣村は、12/31から1/5まで6日間継続されました。1/5は、午後にデモ行進が行われ、労働組合の旗を掲げた各団体、ボランティア、派遣村の利用者が長い行列を作って霞が関の官庁街を練り歩きました。私はこの時、デモ行進というものに初めて参加したのですが、長年ホームレス生活を続けてきたと思しき男性、白人の外国人男性、翌日が仕事始めのサラリーマンの中年男性、大学生の若い女性、子育てを終えた熟年女性まで、多種多様な人達が集まっていて、活気にあふれていました。集まった人達が多様であったにもかかわらず、その雰囲気はとても平和的であり、誰かが争っている場面を見ることはありませんでした。


≪参考URL
Wikipedia「年越し派遣村」<http://ja.wikipedia.org/wiki/>(アクセス日:2014/10/19
 

2014年10月17日金曜日

ソーシャルアクションの方法  年越し派遣村に学ぶ(2)  場所の選定

年越し派遣村を成功させた重要な要素の2つ目ですが、場所の選定が的確だったということがあると思います。

年越し派遣村が開設されたのは、東京都千代田区の日比谷公園です。地図を見れば一目でわかるのですが、日比谷公園のある場所の周囲には、北に皇居、東に東京駅、西に国会議事堂と霞が関の官庁街があります。東京のど真ん中にある、緑の多い大きな公園です。そして、日比谷公園の正面入り口は、厚生労働省の建物とほぼ対面しています。日比谷公園の正面入り口から出て、前の道路を渡れば、すぐに厚生労働省の玄関があるのです。
日比谷公園2

私は、年越し派遣村をテレビや特設ホームページで知った時、「この活動は、ホームレスの人達や派遣切りにあった人達の純粋な避難場所であり、住居を失った人達が、公園でテント生活と炊き出しをしながら年末年始を過ごすだけなのかな。」というくらいの認識でいました。私も200915日の1日だけですが、少しでもお手伝いしたいと思い立ち、ボランティアとして参加しました。前日に、道路地図で日比谷公園の場所を確認したのですが、日比谷公園の地図上の位置を自分の目で確認した時、「年越し派遣村を主催している人達は、厚生労働省と正面切って戦をするつもりなのか。」と驚き、年越し派遣村に対する認識が大きく変わったことを覚えています。年越し派遣村は、住居を失った人達の避難所でありながら、そのエネルギーのベクトルは、対面している厚生労働省に向かっていました。


湯浅氏を初めとした年越し派遣村の主催者は、厚生労働省との直接対決のために日比谷公園という場所を選んだのだと思います。この場所の選び方は、まさに戦における「布陣」と言ってもいいのではないでしょうか。厚生労働省との交渉という戦を有利に進めるため、陣地の選定をしたのです。


湯浅氏達は、住居を失った人達が日比谷公園でテント生活をしたり炊き出しができるように手配しつつ、その一方で、厚生労働省や政治家と色々な交渉を進めていたようです。私も、日比谷公園内のテントで寝起きしていた湯浅氏が、寝癖のついた髪を直す暇もなく、厚生労働省の関係者らしき人と携帯電話で真剣に話している姿を何回も見かけました。


湯浅氏達の交渉の結果、厚生労働省は派遣村の期間中、その建物の一部の場所を解放し、テントを張れるよう手配しました。また、厚生労働省と東京都は、派遣村終了後も住居が見つからない人達のために、数週間生活ができるような臨時の住居と食事を準備することを決定したのです。


≪参考URL
Wikipedia「年越し派遣村」<http://ja.wikipedia.org/wiki/>(アクセス日:2014/10/12

2014年10月5日日曜日

ソーシャルアクションの方法  年越し派遣村に学ぶ(1)  マスコミを味方に

今回からは、年越し派遣村の開設状況を分析し、ソーシャルアクションを成功させるための具体的要素を取り出してみたいと思います。
日比谷公園1

年越し派遣村が成功した重要な要素の1つですが、マスコミを味方につけていたということがあると思います。

マスコミを味方につけることは、ソーシャルアクションを実行する上でものすごく大切なことです。前回も書きましたが、湯浅氏をはじめとした年越し派遣村に関わった人達は、日本の多くの人達に、「今、日本に貧困や派遣切りという大きな社会問題が存在する」ということと、「貧困は自己責任ではなく、社会の問題である」ということを伝えることに成功していました。それができたのは、湯浅氏達が広報戦略の重要性を認識し、マスコミを味方につけていたからです。

湯浅氏達は、テレビの討論番組で、貧困自己責任論を主張する財界の著名人を片端から論破していました。貧困や派遣切りという社会問題について、テレビで公開討論をするということも、マスコミの協力なしではできません。

現代は、インターネットで誰もが個人として情報発信できる時代ですが、ある情報を日本全国の人に知ってもらいたい時、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌というマスコミの影響力は、まだまだ絶大だと思います。特に年代が上にいくにつれて、インターネットを使わない人が増えていきます。そういった人達が頼りにしている情報媒体は、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌なのです。社会問題を多くの人に知ってもらうということを考えると、最初にマスコミに知ってもらい、味方になってもらうことは本当に大切なことです。

湯浅氏のテレビでの公開討論を見て、私は、庶民にとってのカリスマが日本にようやく現われてくれたかという思いがしました。湯浅氏は、資本家や企業の側でなく、一般国民の側に立った意見を常に主張してくれていました。多くの人が、この人なら閉塞感のある今の日本社会を変えてくれそうだと感じたのではないかと思います。マスコミを通じて、湯浅氏は、徐々に世直しのヒーローとして認知されるようになっていきました。


≪参考文献≫
湯浅誠『反貧困』岩波新書、2008